夏目漱石の生い立ち!名作「我輩は猫である」が生まれたのはノイローゼのおかげ?英国留学や藤村操のせいで神経衰弱?

夏目漱石は、明治の文豪として初めて千円札になった人物である。

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などで知られる超売れっ子作家で、朝日新聞社での小説連載の月給は200円(当時は300万くらい)ともいわれている。

今日は明治の文豪・夏目漱石の生涯やおもしろエピソードを紹介する。

夏目漱石の本名とプロフィール

本名夏目 金之助(なつめ きんのすけ)
生年月日1867年2月9日
没年月日1916年12月9日(49歳没)
出身地武蔵国江戸牛込馬場下横町(現東京都新宿区馬場下町)
最終学歴帝国大学英文科

夏目漱石の本名は、夏目金之助(きんのすけ)

生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられた。

漱石の作家としてのデビューは、1904年の暮れ。37歳の遅咲きのデビューだった。

当時、第一高等学校と東京帝国大学の講師をしていた漱石は、教え子の藤村操が入水自殺したことにショックを受け、神経衰弱に陥っていた。

神経衰弱の治療の一環として高浜虚子から創作を勧められ、『吾輩は猫である』を執筆。俳句雑誌『ホトトギス』に掲載され、好評だったため、続編も執筆。その後、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを立て続けに発表し、漱石は人気作家としての地位を固めた。

眠田ダハ
眠田ダハ

東大出身のエリートの漱石が神経衰弱していたのは意外!

夏目漱石の生い立ち

漱石は、1867年(慶応3年)に江戸牛込馬場下横町にて生誕

父・夏目小兵衛直克と母・千枝の五男として生まれるが、母が高齢出産だったため、生まれてすぐに里子に出された

すぐに連れ戻されるが、1867年(慶応3年)江戸が崩壊し夏目家が没落しつつあったことなどから、漱石は新宿の名主・塩原昌之助の養子に出される

その後、養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移る。この年に市ケ谷柳町市ケ谷学校に転校。

1878年(明治11年)に錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。翌年、東京府第一中学校正則科第七級に入学するが中退し、私立二松學舍に転校する。

1883年(明治16年)の9月には、神田駿河台の成立学舎に入学し、翌年の明治17年から小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿し、成立学舎に通う。その年の9月に大学予備門予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、正木直彦、橋本左五郎などがいた。

明治19年の7月に漱石は、腹膜炎のため落第する。この落第が転機となり、漱石は卒業まで首席を通した。

明治21年。漱石が21歳の時に、塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。
その年に第一高等中学校予科を卒業し、英文学専攻を決意し本科一部に入学。

明治22年から正岡子規との親交が始まり、子規の『七草集』の批評を書き、初めて「漱石」の筆名を用いる。「漱石」は、正岡子規が使っていた数多くのペンネームの1つで、中国の古い故事「漱石枕流」に由来している。

意味は「負け惜しみの強いこと」「頑固者」など。これが気に入った漱石は、正岡子規からペンネームを譲り受けた。

イギリス留学と教え子の自殺で神経衰弱

明治23年。第一高等中学校本科を卒業。9月に帝国大学(東大)文科大学英文科に入学し、文部省の貸費生となる。明治26年7月に帝国大学卒業し、大学院に入学。

明治28年。菅虎雄の口添えで松山中学に英語教師として赴任。その年の12月に貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いし婚約する。

明治29年4月に熊本県の第五高等学校講師となる。6月に中根鏡子と結婚。7月に教授となった。

明治32年5月に長女が誕生。その1年後、明治33年に文部省から英文学研究のためイギリスへの留学を命じられ渡英する。
しかし英語研究への違和感を感じ始め、漱石は神経衰弱に陥り、下宿にこもり読書と勉強に没頭。この噂を聞いた文部省は急遽帰国を命じ、明治36年に帰国した。

明治36年。第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、ボイコットをされるなどして、漱石は再び神経衰弱に陥る。

そんな中、教え子の藤村操が華厳滝に入水自殺
漱石は、藤村操が亡くなる前、ある授業中に態度の悪さを叱責していた。
事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」という噂が広がり、英国留学時代に患った神経衰弱が悪化。

授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こし、生徒や家族に過度な体罰を振るうなど問題行動を起こした。

神経衰弱の治療の一環で創作活動をはじめる

この神経衰弱の治療の一環で、漱石は創作活動をはじめる。
処女作の『吾輩は猫である』は『ホトトギス』に掲載され、好評。

『坊っちゃん』『野分』などをホトトギスに発表した後、明治40年に朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

ちなみに、朝日新聞社での小説連載の月給は200円で、当時の価値で300万円くらい。漱石は年収3500万円超えの超売れっ子作家だったというわけだ。

明治44年。文部省からの文学博士号授与されるが辞退。この年の8月に胃潰瘍が再発し、入院。11月には五女・雛子が原因不明の突然死。

大正2年。神経衰弱が再発。3月には胃潰瘍が再発。『こゝろ』『道草』などを書き上げる。

大正4年には、芥川龍之介と久米正雄が門下に加わった。このころからリウマチに悩むようになる。
大正5年、リウマチの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地し、5月『明暗』を『朝日新聞』に連載。そして12月9日胃潰瘍により死去した。

このように漱石は、文部省の貸費生となるほど優秀なエリートだったが、晩年まで神経衰弱に悩まされる人だった。

夏目漱石にも統合失調症説。

以前、芥川龍之介に統合失調説があったと書いたが、夏目漱石にも統合失調症説がある。

漱石はイギリスに留学しているとき、下宿先のトイレの窓の桟のうえに、小銭の硬貨がおいているのを見て、下宿屋の主である姉妹が自分を馬鹿にするためにそうしている思い込んだ

その後、漱石は帰国し、久しぶりに我が家で火鉢に当たる。そのとき、幼かった長女が火鉢のふちに硬貨を載せた。それを見た漱石は下宿屋のトイレの出来事がフラッシュバックし、幼い娘を殴りつけたという。

他にも漱石は、下宿屋に住んでいた学生のことを、漱石のことを監視している「スパイ」だと思い込んだり、被害妄想がとにかくひどかった。

これらのことは『漱石の思い出』に書いてあるので、興味がある人は読んで欲しい。

眠田ダハ
眠田ダハ

文豪界では精神病率が高すぎる‥‥。

一流の文筆家には繊細じゃないとなれないようだ。

夏目漱石が出てくる作品。

お札になった人物なだけあって夏目漱石を題材にした作品や漱石が出てくる作品はたくさんある。その中でもオススメな作品を紹介する。

「夏目漱石の妻」

『夏目漱石の妻』は、NHK総合「土曜ドラマ」枠で2016年9月24日から10月15日まで全4回で放送された連続ドラマ。

主演の夏目漱石の妻・鏡子役は尾野真千子で、漱石は長谷川博己が演じた。

夏目漱石没後100年に当たる2016年に妻・夏目鏡子の『漱石の思い出』を原案として制作された。

「夏目家の食卓」

2005年にTBSの新春番組として放送された『夏目家の食卓』もオススメ。

漱石を演じたのは本木雅弘で、鏡子役は宮沢りえ。

二人ともイメージにピッタリで面白いドラマだったが、視聴率が悪かったため、DVD化されていない。

「文豪ストレイドッグス」

大人気文豪マンガ『文スト』にも夏目漱石が登場する。

文ストの漱石は、武装探偵社社長・福沢諭吉やポートマフィア首領・森鴎外も頭の上がらない存在であり、「夏目先生」と呼ばれている。

見た目はダンディでお洒落なオジサマ。CVは大塚芳忠さん。

統括。夏目漱石はノイローゼのおかげで文豪になれた?

以上。夏目漱石の生涯について書いた。

  • 東大出身のエリート
  • 英国留学や教え子・藤村操の自殺で精神を病む
  • 神経衰弱の治療の一環として「我輩は猫である」を執筆
  • 朝日新聞社での小説連載の月給は200円(当時は300万くらい)
  • 晩年も神経衰弱に悩まされる。大正五年に胃潰瘍で死去

漱石は学問において優秀な人だったが、創作を始めたのは神経衰弱の治療の一環からだった。

「我輩は猫である」「坊ちゃん」などの名作が生まれたのは、ノイローゼのおかげだと言っても過言ではないだろう。